風邪っぴきと終りの季節

風邪をひき、治ったと思い油断していたら、ぶり返しこじらせ、ここ二三日ベッドから出れずに居る。
紅茶に蜂蜜を阿呆ほど投入し、飲んでいる。からだは温まるが、おそらく風邪が治ったころには、からだに重みを感じるだろう。

ベッドの中で特段することもなく、かといって頭がぼうっとしているため本も読めず、最近読んだ本のことなどを反芻している。

佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』('89)をぼくは存外、面白く読んだ。
詩情の季節というものは、おそらく誰にでも到来する。それを青春と呼び換えても良い。
ただ、この季節に足を踏み入れているものは、それが稀有な時間であることに気づくことはない。
目の前にやってくる、ひとつひとつの出来事や出合いに必死になって対処し、関わっていくだけであり、それはほとんど苦悶であり、幸福といったものとは程遠い。仮に、幸福であり、稀有であると感じられるとしたら、それは既に過去として、凝固された後だ。

佐藤泰志の件の小説においては、そういった詩情の季節の終りが描かれている。

青春の終る季節。その過渡期の描き方として、非常に説得力があるように感じた。
主人公の男は、まるで受け身である。身を賭すことをすでに諦め、かといって何か新しいものを待望する(そんなものはやって来はしないのだ)訳でもない。たまたま、パチンコ屋で百円ライターをやったという縁から、バラックに住む姉弟とその家族の生活に巻き込まれていく。この一家族は、街の開発に反対し、バラックを終の棲家とすることを決め込んだ部落の人間であるのだが、男はその「被差別」という否定性に魅かれていく訳でもなく、かといってそれを肯定性に転化して関係を取り結んでいく訳でもない。ただただ、その家族に巻き込まれ、自らの欲望(千夏という姉への欲情)を単純に肯定していくのだった。ここに至る過程には、それまでの人生で培ってきたバランス感覚と、それを意味のないものと考えるある種の捨て鉢な態度が混在している。そこが、この小説の最大の魅力といっても良いだろう。

確かに、人物の造形のうえで文句をつけたくなるところはある。この男の、ある種のマッチョさ。それも豪放磊落といったそれではなく、機転がある程度利くうえでの、マッチョな態度は鼻につく部分もある。しかし、仮にこの主人公になんら共感できる言動や思考のあり方がなかったとしても、ひとつの終りの季節をこのような形で結晶化している点は、やはり面白いと感じるし、何処か身に詰まされる。キャラクターや舞台設定の古風さを超えて、個的な「一季節」が描き出されているから。

鼻水が止まらず、また咳も酷い。
わたしは、今月で29歳になった。特に感慨はない。
詩情の季節などとっくに終っている。
しかし、終りの季節をこの小説の主人公のようには迎えないだろうという予感はある。

やはり、幾らある種のリアルが描かれているとはいえ、フィクションはフィクションだからだ。そこにフィクションの魅力もあり、弱さもある。わたしの人生にはもはや、ドラマなど現れるべくもないし、風邪をひいたり、それでも飯を作ったりしながら、その日その日を淡々とやり過ごしていくだけである。