言語についてのノート(1)

言語とはなにか、について考えてみると、一旦はソシュール主義者の定式化した「言語とは差異の体系である」ということについて考えてみなくてはならない。記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)。両者のむすびつきが、本質的なものではなく、恣意的なものであるというのがソシュールの画期的な分析であったはずだ。これは、たとえば「ネコ」と「ネズミ」ということばはそれぞれが「ネコ」という有節音声と「ネズミ」という有節音声をもち、それが「ネコ」であって「ネズミ」ではないということばの音の差異によって、「ネコ」という記号表現が指示される内容であるところの「ネコ」という対象物を表すということだ。Aということばの指し示すものと指し示されるものは決して必然的な1対1の写像関係を成しているのではなく、「たまたま」他のことば(A'やA'')との関係によって事後的に結びついているに過ぎない。


しかし、これはほんとうだろうか?「ほんとう」かどうかという問いが適切でなければ、ソシュール主義者の主張からはこぼれおちてしまう言語の本質のようなものはないのだろうか?
そこから出発したい。


まず、言語が差異の体系であるとするならば、固有名はおそらくそこからはみだしてしまう。或ははみだすところに固有名の固有名たる理由がある。LivingENDがLivingENDと命名され、(それがたとえネット上に漂うひとつの指標のようなものであるとしても)LivingENDと名指されたものを指し示しているときLivingENDはRivingENDやLivingENFとの関係性からLivingENDであるのではなく端的にLivingENDなのだ。そこでは記号表現と記号内容という分離が想定できない。少なくとも固有名という言語に関しては差異の体系という発想からは説明できない言語の性質が内包されている。


では、固有名的な言語の性質をうまく掬いとる理論はどうすれば立ち上げられるのか?そもそもラングの構造的な解明を主眼としたソシュールの分析に、固有名という言語の問題系が抜け落ちているという指摘自体がいいがかりに過ぎないのか。


吉本隆明は「言語にとって美とはなにか」という孤独な書物においておそらくこの問題系に立ち向かっているとわたしには思える。「像を掴むこと」と「言語理論」との架橋を目指してこの書物はかかれているが、「像」を「掴む」とは端的にいえば、詩言語に代表される言語芸術にまつわる言語のことであろう。言語芸術においてはあらゆることばが固有名に近い性質を備えて綴られていくのではないか。


吉本の用語である「自己表出」というタテ糸と「指示表出」というヨコ糸は決してソシュールのように一国語という言語体系の構造上への関心からうまれてきたものではなく、言語の起源を問うところから出てきている。とはいっても、言語の発生を、「祭式」における他者との関係性の必要性や、生産過程の発展による他者との交通の必要性という、外的環境からの説明では吉本(やわたしたち)の問いにはなにひとつ詳らかにはならない。吉本が着目した(そして多くのマルクス主義者が捨象した)エンゲルスの「相互に何事かを言わなくてはならぬまでになった」ということばにヒントがあるのだ。吉本によれば「自己表出」(対自)と「指示表出」(対他)とは、グラデーションであってあらゆることばが対自であり対他である。言語の発生過程においてはただその対自である「自己表出」の側面が強かったのだと推察している。


詩言語や或は固有名に関してもこの「自己表出」と「指示表出」という概念から考えてみることができると思う。
元来「指示表出」の割合が高いであろうことばに対してでさえ、「自己表出」の性質を闖入させた「ふたたび名を与える」という行為こそが詩を書くという行為ではないか、いまそう考えはじめている。

追記)本日のスプリンターズS
   ビービーガルダンの一点買いでいく。