「たまたま8」六日目、備忘録を越えて

わたしたちは、大木裕之の掲げた「ネオハイブリッド宣言」というそれ自体「キメラ」的な放言に、侵されていくことになるだろう。

武蔵小金井アートランドに於いて、にわかに現出した時空間は、大木の云う「21世紀の思想哲学」をあくまで「先取り」してしまっている。
3月21日、そこで繰り広げられたあらゆる映像、ことば、音、身体は、確実に「21世紀の思想哲学」の種子をあちこちに巻き散らした。
それも、必ずしも受胎によって花開く植物群のそれではなく、裸子植物のそれであるかのように。

あの〈場〉に、生成するものは、中井久夫にならって云うならば「微分回路的認知」によってしか捉えられないだろう。

試みに、石田尚志のライブペインティングと松井茂の朗読を、いま、目の前に呼び起こすならば、
背景には奇しくも「20世紀の思想哲学」を現に生きてしまったストラヴィンスキーが、平面を下降し、白い洞窟のなかへと舞い降りてきていた。


松井の手によってRe-writingされた「古代天文台」(吉増剛造)の「古代」という語にも着目しよう。
おそらくここでの「古代」とは、プラトンの描き出したような洞窟が存在した「古代」ではなく、アルタミラの、或はアジャンターの洞窟のそれだ。

この時空間を切り裂く大木裕之による、「白ペンキの一撃」は、自生的なものであった。
石田がキメラのごとき造形物を鮮やかに描き始め、松井が、極めて即物的な歴史を語り始めたとき、「白ペンキの一撃」は起こったのだった。

「贈与の一撃」とは、けっして有り難いものではない。
なぜなら、それによって負債者は、文字通り「負債」を負わざるを得ないからだ。

この大木の「白ペンキの一撃」以降、(いや、正確には、最初に映写された佐藤零郎のドキュメンタリー映画「長居青春酔夢歌」というActionとそれへのRe-Actionからネオハイブリッド空間=キメラ空間の胎動は準備されていたわけだが)、誰もが、「負債」を負うことになる。
「21世紀の思想哲学」が洞窟内に闖入し、ActionがRe-Acitionを呼び起こし、そのRe-Actionが次のActionへと倒置され、さらなるRe-actionへと波及する。ここでは、ActionとRe-Actionは限界まで近似され「微分回路的認知」によってしか、ひとびとの身体もことばも出現しえない。


おそらく、「21世紀の思想哲学」において、「パフォーマティブ」ということばは死ぬだろう。


付言するならば、Action=Re-Actionの近似空間において、各主体は極めて倫理的かつ性的な「レスポンシビリティ(応答責任)」を負わされた主体Xへと生成する。
それはかつてポツドールが「夢の城」(2005)において出現させた空間であった。「気怠さ」が近代的主体の持ちうる「祝祭後」の感性であるならば、
「タルさ」は、ポストモダン(この空虚なことばは何だ!)を生きる動物的生の特権である。


主体Xは「ケタルさ」を生きる。その時空間には、ピアノ線があちこちに張り巡らされ、
いつ誰かがけつまづいて、暴発するか解らない。
緊迫した「レスポンシビリティ」の連鎖。

わたしたちは、大木裕之の「贈与の一撃」を目撃し、体験させられ、それに連なる「レスポンシビリティ」に裏打ちされたAction=Re-Actionという、
おそらく「21世紀の思想哲学」の種子をこの口腔や、鼻孔や、眼底といったありとあらゆるアナから取り入れてしまった。

わたしたちは、これからは、主体Xとして生きることしかできない。


※なお、この文章の一切の責任はわたしにあるが、その多くを、友人W、majimajiのけんちゃんとの会話に負っている。また、確実に、「オム来襲」(id:matterhorn)とのこれまでの会話の積み重ねが影響を及ぼしている。