3月21日、一週間前の記録として。

大木裕之プレゼンツ「たまたま8」ネオハイブリッド宣言 0(ゼロ)とSPICE フィクション4



六日目の記録として、備忘録的に。




佐藤零郎さんの映画「長居青春酔夢歌」は、昨年神戸映画資料館で観ていたが、二度目にみて、少し離れた位置から観ることが出来たと思う。
何故、長居の野宿者への密着から、釜ヶ崎の暴動へとキャメラが移行していくのか。そしてその二つの〈場所〉における、監督の距離の取り方の偏差が
一度目に観たときは気になっていて、実際、零郎さんにも質問したことがあるのだが、彼からは意外にも「釜ヶ崎」でのシークエンスでの距離のほうが
ドキュメンタリー映画としては「タダシイ」気がするということを云われた。そこは、私は疑問。この「長居青春エレジー」は時系列はバラバラに再構築されており、
それに伴って、キャメラと登場人物たちの距離も、一定であることを放棄している。
釜ヶ崎での2008年夏の暴動に移行していく際、急にダイレクトシネマのような距離へと同時に移行していくと思うのだが、
あの、シークエンスでの投石の音、しゃがみこんで、ブロックを砕いている音、そして放水の音、無数の機動隊に取り押さえられ、楯で隠され、殴られるヒトの音、
は、ひとびとのあまりに印象的な視線と、表情のうえに即物的にオーヴァーラップしてくる。
それを、「タダシイ」という零郎監督の感覚には激しく同調したくなるものの、
やはり、この映画において、圧巻なのは、長居に暮らし、行政代執行によってテントを、居住地を「潰される」ひとびと、
監督はじめ芝居をうつためのスタッフたちとの信頼関係が、キャメラに滲み出ている点に尽きると思う。
私は、2001年に山形のアジア千波万波に出展された「この冬」の監督、仲華と同じ資質を佐藤零郎監督に感じる。



つづいて、OONO YUUKIさんの音楽。インストで始まり、徐々に「唄」へと、ことばへと移って行く。
会場にはいまだ、「長居青春酔夢歌」の余韻があって、というか、この日1日の趨勢は、やはり零郎さんの映画の上映から始まったことによって
ある程度方向づけられていったのだと思っている。



以後、8ミリ映写機を使ったフィルム上映!へと続き、石田尚志さんのライブペインティング+松井茂の朗読(というか朗読されたテクストが途中まで、吉増剛造の「古代天文台」だったというのはどうかと思うが、でも松井さんはノートに多分書き写していて、わたしも筆写はよくやるのでそれはいいなあと思った)における、
大木裕之の、ペンキで引いた一本の白い線という、アクション/リアクションは、本日のパフォーマンスでのひとつの頂点であったと思う。



そのことについては、いつかきっちりと書きたいが、
あの会場において、誰しもが、「参画者」ではないということはあり得なかった。
「観客」として、存在することはもはや誰にもできなかった。




そのような空間があの日、武蔵小金井に現出したことをわたしは、一生忘れないし、
同時に、それでも半分以上「観察者」でいたいと最後まで思うわたし自身の問題も明確に浮かびあがった。
ラスト、終電を間近にひかえ、HIPHOPと銘打って始められた、若者たちのパフォーマンスに、灰皿や椅子やティッシュや、あげく展示されていた作品たちが
投げつけられて行くさまを観ながら、わたしは、自分の詩のプリントされたA4用紙が頭のうえに降ってきたとき
ようやく我に返り、これは、一体どういうことが起こっているのか瞬時に了解できた気がした。



今回、大木さんとSPIさんに誘って頂き、昨年11月に亡くなった親友のために書いた詩を、展示していたのだが、
亡くなった彼こそが、このような空間を最も愛しているようなひとであったので、
わたしは、お空の上から、おそらく、彼が大爆笑しているさまが、明確にみえて、
その晩の「祝祭」が人一倍、嬉しかった。