書を捨ててハローワークへ行く

仕事を辞めて、はや二月が経とうとしている。この間、欲の赴くまま本を読んだり、詩になりかけてなり損ねたようなものをひとつふたつ書いては破棄したりしている。昨日、旧友より電話があり、「どん詰まりの生活はどうか」と尋ねられた。翻って、問題は私は本当にどん詰まっているのかということである。さらにいえば、私は生活をしているのかというより深刻な問いに直面する。ランボオの一節に「これもまた生=生活なのだ」というのがある。この言葉を支えに、中途退学となった大学の最後の二年を過ごし、運良く職にもついて生活に身を賭してきたつもりだ。第一の勤め先での分岐は、自分の根柢を詩人だと誤謬したところにある。それ以来、私は地面のうえを自分の足で歩くことを怠り、会社という組織への帰属意識は薄れ、いつぞや生活することを自らの手で放棄してしまった。詩人などという種族は、社会から珍奇な眼で見られ同時に疎外されることに安住した瞬間に死ぬ。仮に、詩を書く人間というものが存在するとすれば、それは彼が詩人であるから詩を書くのではなく、ただ生活者のひとりとして書くのである。その根本を忘却していたが故に、何者でもなく、またろくでもないヒトというものが出来上がった。どん詰まることもできないのである。何故なら、そこには生活が無いからだ。これ程寂しいこともあるまい。労働することと表現することの間に横たわっているのは、余暇の有る無しではない。仕事が急がしすぎるが故に、詩が書けないというのは誤りである。暇のさなかに生まれる詩など、誰が必要とするものか。短期間ではあったが、会社という組織のなかで仕事に従事していた頃、そこで得た見聞、充実感、疲労感といったものは、私のささやかな詩作に少なからず影響を齎した。しかし、私が道を誤ることになった自らを詩人と同定するに至った原因は、決してそこで学生時代の思索の果てに格闘して築き上げたことばが失われることを恐れたからではない。むしろ逆であって、労働やそれにまつわる体験が齎した、自らのことばへの不信、葛藤は誤解を恐れずにいえば、生き生きと私の詩に息づいていたのである。たとえ、一篇の実作を伴っておらずとも。だが、それでもなお、歯痒く思うのは詩は、ことばは誰のために向けられておるのかという点である。会社勤め、そしてそれに付随する社会での体験は明らかに私に影響を与えた。私の繰り出すことばにもまた。しかし、私が紡ぐことば、表現、詩は一向に会社に影響を与えることはできない。それは、会社に勤める私自身にも影響を与えることができなかったのだから、当然のことと云えるかもしれぬ。だが、それでもなお、問う。畢竟、現代において、詩を必要とするものは誰であるのか。他者か?まだ見ぬ他者とでもいうのか?思わず、笑いが込み上げてくる。生活者の詩は、同じく生活を営む他人、すぐ傍らにいる他人以外の誰の用に供されようか。書を捨てて、明日ハローワークへ行こう。