口ずさむ詩(うた)は何だい?

一昨日書いた「食うべき言葉(赤羽より)」という文章に対して、幾つかコメントがなされており、また他所でも言及されているようで、自家中毒気味になるやもしれぬが、稿を改めて応答したいと思う。その際、「他所」での言及にも応じて行く点寛恕願いたい。

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《仕事を辞めた詩詠みの友人が、結局のところ時間がいくらあったところで全集を読み漁りはせぬし、仕事をしない毎日が詩作に与える影響が仕事をしていた日常のそれよりいいかと問われれば甚だ疑問であるとして、出した結論が「書を捨ててハローワークへ行こう」だった。》(いぐち)

《@Lee_Brazil 世間なんてものが気になるから、興を感じている自身に自信がもてなくなるから、退屈になるのかと思ったりもする。全霊で集中して居る状態はどっちにしろ幸福だ。どうやれば、周りを気にしないで集中していられるかが課題。たぶん、無職の詩人にとっても。》(リナ)

《大切なのは、書を捨てて生活を選ぶのではなく、書を携えて生活することだ。社会という象徴界を常に相対化すること。自らの世界を揺らすこと。それは危険なことだ。しかし矛盾ではない。》(TAKK)

《書を携えてハローワークへ行こうってか。晴耕雨読でいいよね、書はひとまず自宅待機で。RT @TAKK5581 大切なのは、書を捨てて生活を選ぶのではなく、書を携えて生活することだ。社会という象徴界を常に相対化すること。自らの世界を揺らすこと。それは危険なことだ。しかし矛盾ではない。》(いぐち)


《無職の詩詠みの結論は別に「書をすててハローワークに行こう」ってことじゃなくて、「詩が(ワカチキぶんぶんという言葉も)コミュニケーションのツールで(も)ないならいったい何よ?詩作の時間がいくらあったって読み手がいないなら意味ねぇ」であると解した。 RT @Lee_Brazil:》(せきと)


《「職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。家に閉じこもって書を読んでるだけじゃ駄目だ、っつうかそれすら没頭できてねえ! とりま社会との接点もたなきゃ!」かと。RT @_yula_ 無職の詩詠みの結論//詩作の時間がいくらあったって読み手がいないなら意味ねぇ》(いぐち)


《「詩人は誰にも理解されなくて良いとした時点で死ぬ」という構えで社会に在ろう。社会って何か知らんが、とりあえず、職じゃね?かと RT @Lee_Brazil: 「職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。家に閉じこもって書を読んでるだけじゃ駄目だ、っつうかそれす》(せきと)


《確かに、「とりあえず職」感は強いな。他にも方法はありそうだが。RT @_yula_ 「詩人は誰にも理解されなくて良いとした時点で死ぬ」という構えで社会に在ろう。社会って何か知らんが、とりあえず、職じゃね?かと RT 「職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。》(いぐち)


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家の近所にある赤羽神社の境内で、文学とか詩とかについて考えていたのはもう十年は昔のことだ。その頃、同じ高校で文学の話をするものなどいないし、独り煙草の酩酊感に身を任せながら、ああでもない、こうでもないと考えていたのは、「文学の無償性」ということであった。文学者としての地位や文学者の社会での有り様を思うに、果たして無償ということを貫ける文学者などはいるのだろうかと考えていた。無償であって無垢ではない。無垢ということばには欺瞞しか感じなかったと覚えている。何故、このような昔話に興じているのかといえば、「食うべき言葉」で云いたかったことのひとつは、この無償性というものが会社で働くという経験を通じて、徹底的に粉砕されたと思うからだ。ここで鮎川信夫の言葉をあえて引くならば、「純粋詩的観念が、いつも詩の無償性というものに擬結する場所で、われわれは逆に有償性を求めてゆく」というときの「有償性」という言葉の意味を私なりに実感できた、その軌跡の一部を一昨日の日記で著したつもりである。

いぐちの要約による私の文章は、そりゃ因果律のみで書き下せばそういうことになるのやもしれぬが、また、私の舌足らずに多く混乱させる原因があったのは認めるが、あまりに乱暴なまとめかたではないか。まず、せきとの云うように、「書を捨てて明日ハローワークへ行こう」というのが結論ではなく、件の文章の根本のひとつは「詩がコミュニケーションのツールで(も)ないなら、何よ?」という点にある。《だが、それでもなお、歯痒く思うののは詩は、ことばは誰のために向けられておるのかという点である。会社勤め、そしてそれに付随する社会での体験は明らかに私に影響を与えた。私の繰り出すことばにもまた。しかし、私が紡ぐことば、表現、詩は一向に会社に影響を与えることはできない。それは、会社に勤める私自身にも影響を与えることができなかったのだから、当然のことと云えるかもしれぬ。》としつこく書き記したのはそのためだ。無論、これ自身は暴論に近いものに映るかもしれない。会社勤めが〈私〉(〈私のことば〉)に影響を与えるのと、同等の資格で、会社そしてその彼方ではなく、そのなかに住まう社会へ、〈私のことば〉が影響を齎さないのは何故かということに疑義を呈しているのだから。付言するまでもなく、私がここで云っているのは私の言葉の有償性を求めるという立場である。よって、リナ(彼女自身は「食うべき言葉」を読んでいないだろうと推測するのでここで反論するのは申し訳なくも思うが)の云うところの、《世間なんてものが気になるから、興を感じている自身に自信がもてなくなるから、退屈になるのかと思ったりもする。全霊で集中して居る状態はどっちにしろ幸福だ。どうやれば、周りを気にしないで集中していられるかが課題。たぶん、無職の詩人にとっても。》
という言葉はまさに、いまの私にとっては、表現の無償性に安住していられることによる「幸福」であるとしか思えない。私は「世間」など気にはしていない。気にしているのはあくまで「社会」だ。「全霊で集中し居る状態」自体は、フラットなものだが、その志向性が己にしか向いていないとすれば、それはあまりに寂しい無償性と云えはしまいか。「興を感じている自身に自信」を私は持たない。むしろ、「興」というものを警戒する。「欲の赴くまま」に書物を読む行為を私は尊いとはもはや思えない。確かに、「興を感じる」書物に耽溺する快楽を知らぬではない。だが、ここで云いたかったことは、果たしてそれで良いのかということである。寺山修司のことばを借りて「書を捨てて」と云ったのも、この「(快楽のための)書」を捨てなければならないという意味だ。何故なら、それは「書」をも殺すことになるだろうからという点に尽きる。

ここで「快楽」に対置するものとして私が主張しているのは「要/不要」である。《暇のさなかに生まれる詩など、誰が必要とするものか。》と書いたときの「必要」であるかないかということだ。それは決して社会の功利に沿った要/不要という意味ではない。どの詩人が云った言葉か失念してしまったが、「おまえの脳とおれの脳を直に交換したい」という程に焦がれるコミュニケーションへの欲求を軸とした要/不要だ。そのうえで、「生活者」という言葉が全てを包含しうると考えてきたし、いまも考えている。

TAKKの云う、《大切なのは、書を捨てて生活を選ぶのではなく、書を携えて生活することだ。社会という象徴界を常に相対化すること。自らの世界を揺らすこと。それは危険なことだ。しかし矛盾ではない。》という言には部分的に首肯するものの、たぶん私とTAKKのあいだでは、「生活」という言葉に対する秩序が若干ずれているのではないかと思われる。前述したように、私が捨てるべき「書」というのはあくまで、社会へと向かって行こうとしない言葉によって組織されたような「書」だ。私なりに換言すれば、不要な書を捨て、必要な書を守ることが「生活」するということになる。

《職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。家に閉じこもって書を読んでるだけじゃ駄目だ、っつうかそれすら没頭できてねえ! とりま社会との接点もたなきゃ!」かと》(いぐち)。これは私から云わせれば、全く倒立であって、職という社会との繋がりがなくたって十二分に「読み手」を想定し得る。そういうことを私は会社勤めのなかで学んだと書いているのである。「社会との接点をもたなきゃ」というのも奇妙な言だが、ひとは誰しも社会との接点を「持たざるを得ない」のである。社会とは決して観念ではない。それぞれ、独自の精神と肉体をもった個人の集合だ。それは、具体以外のなにものでもなく、日々私たちが、接している《あなた》という二人称だ。

《とりあえず、職じゃね?》(せきと)。まさに、その通りなのだ。会社勤めという経験が、具体以外のなにものでもない《あなた》を呼び寄せるのであるなら、「とりえず」という軽さを伴って、私は職へ向かっていくし、それが、私の個的な「生」なのだ。

最後に、生=生活という語で私が名指そうとしているものが、判然としないようであるから、ミクシィさいこーのコメントに応答しておこうと思う。

ワークライフバランスというときには
生活こそが仕事と対置されます。
たぶん詩は生活=ライフに含まれます。
しかし「生活者の詩」というときには
生活は仕事を含みます。
どうも対象としてるもの「以外」のすべてを
生活と呼んでいるんじゃないかという気がします。

これは僕もそうだから云いますが
てっちゃんにとって生活なんて云うのは
「余り」なんじゃないですか。
仕事も詩も考えようとするなら
生活なんて出来なくて当然じゃないでしょうか。

なーんにも無くなった今、
「生活を脅かす対象がないのに生活がない!」
と困惑してるのでは? 
本当は
「生活を脅かす対象がないから生活がない!」
なのかも知れません。

TAKKKが書いている、

>生活の中に文学があるのであって、文学の中に生活があるのではない

というのは勿論そうですが、
この対比よりも、もしかするとてっちゃんには
「生活詩人」と「詩人生活」の対比の方が
しっくり来るのではないかという気がします。
「詩人生活」というのは
通販生活」の「通販」が「詩人」に変わったものです。

私は生活者なのか?と自分に問う詩人よりも、
詩も仕事もひっくるめて生活してます、
というのがあるいは今の理想に近いのかも知れないと
読んでて思いました。

当たり前のように詩を書く、
というのはおそらくまだ抵抗感はあるんだろう、
と思いますが…。》

後半の、生活詩人/詩人生活という括りでいえば、後者に当たるし、「詩も仕事もひっくるめて生活しています」というのが理想型というのは、その通り。だけれども、前半の意味が私にはいまいちとれない。「ワークライフバランス」といったときの(この言葉は今、初めて耳にしたので誤解があるかもしれないが)生活/仕事の対立に承服できないのは、ミクシィさいこーが読み取っている通りなんだが、「ワークライフバランス」という枠のうえでは、「生活」なんて余りといえばいえる。だのに、ここまで私が「生活」というものに拘泥する理由が「生活を脅かす対象がないから生活がない!」という一点に尽きるのであれば、 それは恐ろしいが、そうではないのではないか。「生活を脅かす対象がないから生活がない」という言葉に驚きつつ、「生活」という認識を媒介にして「詩」と「仕事」を等値するために「生活」していくのだと云ってみたくなる。


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以上、長くなったが、一旦ここで「無職の詩詠み」からの応答を終える。


口ずさむ詩(うた)はなんだい?という問いかけが不図、頭のなかを旋回している。