『ヒバクシャとボクの旅』(2010 国本隆史)に関する覚え書き


一昨日、在米被爆者の証言を扱ったロードムヴィー?である「ヒロシマナガサキ・ダウンロード」(2010竹田真平)を劇場でみたのだが、この作品について語るとしたら、「不誠実」のひとことに尽きる。必ずしも、誠実さは作品の美徳ではないが。そして、わたしは、ほとほと(自分も一時期そうであったとはいえ)バックパッカーのなかの、ある類いのメンタリティが嫌いなのだと痛感した。それにしても、インタビューをした被爆者のかたがたの人数を指折り数え、今日一日で4人も「こなした」と言わんばかりの青年をみたとき、さすがに、劇場を出ようかと思ったのが、しょうじきな感想だ。ここでは、これ以上、述べない。代わりに、国本監督の作品をみた際のメモをアップしたいと思う。


監督は、ピースボートに乗って世界中を旅する「ヒバクシャ」と4ヶ月間、船上で或は訪れた陸の上で、時間を共有する。しかし、驚くべきことに、冒頭、船上からのきらめく波間のショットで始まるその映画は、複数の「ヒバクシャ」の「証言」をリミックスした映像に転換されるのだった。いくつのとき、に被爆し、どこで、被爆したか。その証言が、単一者のことばとしてではなく、あたかも証言が入れ替え可能であるかのごとく、次々とモンタージュされていく。あくまで、(断片断片が矢継ぎばやに繋がれているとはいえ)、体験談は体験談だ。一旦は、そう納得し、観るものは、その言葉に耳を傾けざるをえない。ないがしろにはできるべくもない。ただ、断片の再構成によって、ひとつの物語が作為されるとき、わたしたちは気付く。この「ヒバクシャ」たちの言葉は一体誰に向けられて発せられているのかと。

字幕によって、監督の逡巡が明らかにされ、ついには「証言ってなんだろう。」という一見ナイーブなテロップが挿入されたのち、「証言」のリミックス(再構成による物語のたちあげ)が再び繰り返されるとき、明らかに監督の「戦略」が、「ヒバクシャ」に直に寄り添うことではなく、メタな位置に立って、「証言」とはなにか?という、あまりに巨大な問題に立ち向かうことにあることが詳らかになる。


「証言」が反復されるとは一体どういう事態なのか。


ヒバクシャのうち、対称的な二人に焦点が当てられ始める。ただ被爆したときの年齢が2歳であったという共通点のみから、佐々木貞子さんに自らをなぞらえ、貞子さんにならって鶴を折り続けている淳子さんという女性。そしてもうひとりは、同じく、幼少時に被爆し、まったく、被爆時の記憶をもたず、他の「ヒバクシャ」とはどこか、距離を置きつつ、冷静になろうとしている永野さんという女性。


淳子さんは、ある年上のヒバクシャを「イキガミ様」と呼び、その方が亡くなったらどうするのかという監督の質問に対し、「すべてわたしが引き継いで語り続けていきます」となんの逡巡もなく答える。その決意は確かにすさまじい。ある種の使命感を持っている。


一方、あくまで逡巡を隠せず、みずからがこのヒバクシャによる世界への「伝道」の旅への資格があったのかどうかさえ疑わしく思っている永野さんは、こっそりと監督に打ち明ける。ベトナムを訪問するシークエンスで、枯れ葉剤によって重篤な障害をもって生まれ、生きているひとびとに対し、「わたしは幸運だと思います。ことばは悪いかもしれないけれど、あちら(重篤な障害をもったかた)ではなくこちらにいるのですから」と。


永野さんの態度は、「証言」というもののもつ困難さを如実にあらわしている。冒頭で、そして、二度目の反復によって、監督が指し示したように、再構成された「証言」はあきらかに風化していく。それに対し、この永野さんの打ち明け話は、あまりにも正直で、あまりにも辛く響く。


公式に語られるコトバが、「儀式的」で「機械的」なさまは、おそらく多くの「語られなかった」「証言」を覆い隠す。


被爆地」において起こった本当の意味での悲劇や、「ヒバクシャ」たちのその後の人生において起こった差別的な取り扱い。そういったことをこの映画は暗示しつつ、「証言」とはなにかという問題に答えを出してはいない。


しかし、国本監督があくまで誠実であるのは、「ここまでは考えてみた。この先は旅の途上である」という態度だ。


ピースボートの旅から1年後、永野さんを訪ねた監督は、永野さんの運転する車に乗りながら、当たり障りのない会話をする。永野さんがいまでも、なお逡巡しているさまをあぶり出しながら。


淳子さんが、激しい使命感をもって、自らを当事者と位置づけ、その他のヒバクシャたちのことばを総合し、「悲劇」の象徴である佐々木貞子の生まれ変わりであるかのように生きようとするのに対し、永野さんは、ひとりの個人として、どうやれば伝わるのか?という方法論に拘泥し、ぐるぐると回り続ける。この映画において1年後に訪ねた彼女の運転する車がどこに向かっているのかはあきらかにされていないように。