峰という煙草がいつのまにか無くなっていたから。

私は煙草を吸わないので、真冬の屋外の空気に触れたとたん、その冷たさを煙と共にからだにしまいこんでしまおうという欲動を理解できない。


私は煙草を吸わないので、見知らぬ土地の見知らぬ公園のベンチに無目的に存することが、火のついた煙草をくわえることで免罪されることなど理解できない。


私は煙草を吸わないので、埃まみれの少年たちが屑鉄を乗せた三輪のうえで、一本の煙草をまわし吸いしているさまに感じる親しみを理解できない。


私は煙草を吸わないので、城跡を取り囲む森たちが、一本の吸殻によって燃し尽くされ、街を呑み込む契機を失ったのだ、などと世迷い言を云う少年は存在しない。


私は煙草を吸わないので、煙草を吸う私は存在した例がない。

『ヒバクシャとボクの旅』(2010 国本隆史)に関する覚え書き


一昨日、在米被爆者の証言を扱ったロードムヴィー?である「ヒロシマナガサキ・ダウンロード」(2010竹田真平)を劇場でみたのだが、この作品について語るとしたら、「不誠実」のひとことに尽きる。必ずしも、誠実さは作品の美徳ではないが。そして、わたしは、ほとほと(自分も一時期そうであったとはいえ)バックパッカーのなかの、ある類いのメンタリティが嫌いなのだと痛感した。それにしても、インタビューをした被爆者のかたがたの人数を指折り数え、今日一日で4人も「こなした」と言わんばかりの青年をみたとき、さすがに、劇場を出ようかと思ったのが、しょうじきな感想だ。ここでは、これ以上、述べない。代わりに、国本監督の作品をみた際のメモをアップしたいと思う。


監督は、ピースボートに乗って世界中を旅する「ヒバクシャ」と4ヶ月間、船上で或は訪れた陸の上で、時間を共有する。しかし、驚くべきことに、冒頭、船上からのきらめく波間のショットで始まるその映画は、複数の「ヒバクシャ」の「証言」をリミックスした映像に転換されるのだった。いくつのとき、に被爆し、どこで、被爆したか。その証言が、単一者のことばとしてではなく、あたかも証言が入れ替え可能であるかのごとく、次々とモンタージュされていく。あくまで、(断片断片が矢継ぎばやに繋がれているとはいえ)、体験談は体験談だ。一旦は、そう納得し、観るものは、その言葉に耳を傾けざるをえない。ないがしろにはできるべくもない。ただ、断片の再構成によって、ひとつの物語が作為されるとき、わたしたちは気付く。この「ヒバクシャ」たちの言葉は一体誰に向けられて発せられているのかと。

字幕によって、監督の逡巡が明らかにされ、ついには「証言ってなんだろう。」という一見ナイーブなテロップが挿入されたのち、「証言」のリミックス(再構成による物語のたちあげ)が再び繰り返されるとき、明らかに監督の「戦略」が、「ヒバクシャ」に直に寄り添うことではなく、メタな位置に立って、「証言」とはなにか?という、あまりに巨大な問題に立ち向かうことにあることが詳らかになる。


「証言」が反復されるとは一体どういう事態なのか。


ヒバクシャのうち、対称的な二人に焦点が当てられ始める。ただ被爆したときの年齢が2歳であったという共通点のみから、佐々木貞子さんに自らをなぞらえ、貞子さんにならって鶴を折り続けている淳子さんという女性。そしてもうひとりは、同じく、幼少時に被爆し、まったく、被爆時の記憶をもたず、他の「ヒバクシャ」とはどこか、距離を置きつつ、冷静になろうとしている永野さんという女性。


淳子さんは、ある年上のヒバクシャを「イキガミ様」と呼び、その方が亡くなったらどうするのかという監督の質問に対し、「すべてわたしが引き継いで語り続けていきます」となんの逡巡もなく答える。その決意は確かにすさまじい。ある種の使命感を持っている。


一方、あくまで逡巡を隠せず、みずからがこのヒバクシャによる世界への「伝道」の旅への資格があったのかどうかさえ疑わしく思っている永野さんは、こっそりと監督に打ち明ける。ベトナムを訪問するシークエンスで、枯れ葉剤によって重篤な障害をもって生まれ、生きているひとびとに対し、「わたしは幸運だと思います。ことばは悪いかもしれないけれど、あちら(重篤な障害をもったかた)ではなくこちらにいるのですから」と。


永野さんの態度は、「証言」というもののもつ困難さを如実にあらわしている。冒頭で、そして、二度目の反復によって、監督が指し示したように、再構成された「証言」はあきらかに風化していく。それに対し、この永野さんの打ち明け話は、あまりにも正直で、あまりにも辛く響く。


公式に語られるコトバが、「儀式的」で「機械的」なさまは、おそらく多くの「語られなかった」「証言」を覆い隠す。


被爆地」において起こった本当の意味での悲劇や、「ヒバクシャ」たちのその後の人生において起こった差別的な取り扱い。そういったことをこの映画は暗示しつつ、「証言」とはなにかという問題に答えを出してはいない。


しかし、国本監督があくまで誠実であるのは、「ここまでは考えてみた。この先は旅の途上である」という態度だ。


ピースボートの旅から1年後、永野さんを訪ねた監督は、永野さんの運転する車に乗りながら、当たり障りのない会話をする。永野さんがいまでも、なお逡巡しているさまをあぶり出しながら。


淳子さんが、激しい使命感をもって、自らを当事者と位置づけ、その他のヒバクシャたちのことばを総合し、「悲劇」の象徴である佐々木貞子の生まれ変わりであるかのように生きようとするのに対し、永野さんは、ひとりの個人として、どうやれば伝わるのか?という方法論に拘泥し、ぐるぐると回り続ける。この映画において1年後に訪ねた彼女の運転する車がどこに向かっているのかはあきらかにされていないように。

間違った夏

1.
夏の夜がひとつずつ明け
きょうもまた
薄ら笑いで迎えた


なにが可笑しいのか
闇雲に過去を
終わらせてみたい
と思った


断ち切るには
じゅうぶんに
必死の顔つきだが
ことばと技術が
だぶついて
過去のほうから
笑い声と
すすり泣きが
合唱しながら
近づいて
くる


こうなったらもう
とか云って
非常口を探している



2.
冷水を飲み干し
今夜も
こんがらがった
青い糸だけの
世界を想像する
おまえはまただ
胡座のかきかたを
間違えて
さいしょから
骨のありかを
確認しだす
忘れてしまった
香りとかで
卒倒できるのだから
おれとはそもそも
仕組みが異なるのだろう
見違えたように
夏の夢を
やりなおせば
そこには
悪意が香っている
悪意がつきれば
わたしたち、滅んでしまう
なので
腕と腕を組み
指先に
血文字を貼付けて
行進するのだ
滴る音楽が
遠くのほうで
鳴っていて
わたしたち
とは関係のない
終曲がはじまった

海+e/motion

さかしま に
決壊した真昼の 
いっさいの裂け目に 
わたしたちの、崩落した
白い希み
が、滴り 
直立した灰、の
凪いで 碧さ
のきみは 等しく 
舗道に轢かれて
いる

短さで繁っていく碧い海の記号を(焦らすこ
となく)囲い込んだぼくたち、の半生(その、
残 響。) は身のフルえ、ふえ行き 強、
く噛んだ銀糸の苦み の底辺でいま、なお反
復の生/活を紡ぎ (ましろい、足跡 が風
上から燃え ていく よ) ひときざみの虚
森 から出発したきみの左手 の、崩れ落ち
てそっと 行き先を(ただ、ただ行き先
を!)示し続け、

〈レット・・・イッ・・ト・・・ゴオ・・・
ゴ・轟・・轟・・・〉 

鈍く、唸っている灰色の 
向こう岸で刮げ、濡れそぼった片足を
(いまだ 見ている 
強奪された種火から 
はなにも発 光するものは 
 なく 
(掴みとれるものならば朝に!

底、で流れている緑青の 
泥炭をきみが吐き
出し 叩き売ったその
真昼に、ぼくは原色の対岸で 
荒みきった取引き
を始め 水先案内人
の解放区、を 
ちりぢりになったオレンジの
ガラス玉 や溺れ
そこなった馬の骨 
で埋め尽くしていった 


  
万華鏡を覗き込むきみ、乱れ
             零れろ/よ 
    
  一刻の海
          (その、増殖
       と共に
             舵 噛ん だ
     碧さの、

  「散って!
 

溢れ、
     はみ だした 
   湿原に   潤ん だ
       緑青を両腕に抱え、
  ようやっと 私たち 
 の 祖先の 谷に 
         ちいさ/き
  ものども の
  息吹、           (短さの、 
絡め とられること                
 なく
  鳴っているの です          

 (チャル、チャルゥ!
   
  聴こえ・・て・・・い・ます・・か・・
  ・・・応・・・答・・願い・・ま・す・
  ・こち・ら・・・は・・大丈夫・で・・ 
  す・わたし・・は・完・・全に・愛ィ・
  痛・シテ・・産・・み・崩れ・・ない・
  こん・・なに・・も・・おは・こんばん 
  ・血・・は・・チャ・・チ・ャル・ーゥ

丁寧に準備されていたのだった ぼくたち、
の 海へと漂着した里程標 
 (あの、だいじな石ころ!) 
透けて見える図法の、頂きでは
一対で生 息。するボウフラが咆哮している 

「あたらしい息継ぎには、あたらしいe/motion
が必要です///かわいた血流は、一ダース
もあれば充分でしょう!

見えや しないのだ、淀んだ肉片で解かれた   
  文字群なぞ
(沈 潜する、東と西の河口で ぼくたち、
は熟れた骨、と緑青の宝 石と を等しく
交換した)


                    2009年2月作成

公開空地


園芸部でも
ないわたくしが
やつれたビニルホース
でぶっぱなした冷水を
ひと月おくれて
のみ干し
てゆく
あの向日葵
に今日、白さの
灰が積もる

すべて
の氷花が
いっせいに枯れ
名に乗る
ことさえ、断念した
晩夏の氾濫

沈んだ校庭の
野っぱら
に寝転んでも
踝まで
は浸かる
だろうから
砂利を描いた
額縁は錆びて
側溝からの
顔に寄り付きはしない

視線だけが
(物質だった)
ただひとつの
(物質だった)
明るさとは縁を切り、反転した眼球のなかに住まう 
湖面から水晶へと乱反射する光は淡く、一握りの灰が呼応していた

呼び 呼ばれているプラタナスの入り口で
十階から見おろした公開空地には 一本の蘇鉄がとり残され 
その実を喰らった兄妹たちが いまも 苦しんでいると聞いた

「誰が最後の石を投げた」

水底の
なかで揺れながら
ふたたび
凍りつき
誰も座ることのなかった
椅子を焼く

口ずさむ詩(うた)は何だい?

一昨日書いた「食うべき言葉(赤羽より)」という文章に対して、幾つかコメントがなされており、また他所でも言及されているようで、自家中毒気味になるやもしれぬが、稿を改めて応答したいと思う。その際、「他所」での言及にも応じて行く点寛恕願いたい。

               *

《仕事を辞めた詩詠みの友人が、結局のところ時間がいくらあったところで全集を読み漁りはせぬし、仕事をしない毎日が詩作に与える影響が仕事をしていた日常のそれよりいいかと問われれば甚だ疑問であるとして、出した結論が「書を捨ててハローワークへ行こう」だった。》(いぐち)

《@Lee_Brazil 世間なんてものが気になるから、興を感じている自身に自信がもてなくなるから、退屈になるのかと思ったりもする。全霊で集中して居る状態はどっちにしろ幸福だ。どうやれば、周りを気にしないで集中していられるかが課題。たぶん、無職の詩人にとっても。》(リナ)

《大切なのは、書を捨てて生活を選ぶのではなく、書を携えて生活することだ。社会という象徴界を常に相対化すること。自らの世界を揺らすこと。それは危険なことだ。しかし矛盾ではない。》(TAKK)

《書を携えてハローワークへ行こうってか。晴耕雨読でいいよね、書はひとまず自宅待機で。RT @TAKK5581 大切なのは、書を捨てて生活を選ぶのではなく、書を携えて生活することだ。社会という象徴界を常に相対化すること。自らの世界を揺らすこと。それは危険なことだ。しかし矛盾ではない。》(いぐち)


《無職の詩詠みの結論は別に「書をすててハローワークに行こう」ってことじゃなくて、「詩が(ワカチキぶんぶんという言葉も)コミュニケーションのツールで(も)ないならいったい何よ?詩作の時間がいくらあったって読み手がいないなら意味ねぇ」であると解した。 RT @Lee_Brazil:》(せきと)


《「職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。家に閉じこもって書を読んでるだけじゃ駄目だ、っつうかそれすら没頭できてねえ! とりま社会との接点もたなきゃ!」かと。RT @_yula_ 無職の詩詠みの結論//詩作の時間がいくらあったって読み手がいないなら意味ねぇ》(いぐち)


《「詩人は誰にも理解されなくて良いとした時点で死ぬ」という構えで社会に在ろう。社会って何か知らんが、とりあえず、職じゃね?かと RT @Lee_Brazil: 「職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。家に閉じこもって書を読んでるだけじゃ駄目だ、っつうかそれす》(せきと)


《確かに、「とりあえず職」感は強いな。他にも方法はありそうだが。RT @_yula_ 「詩人は誰にも理解されなくて良いとした時点で死ぬ」という構えで社会に在ろう。社会って何か知らんが、とりあえず、職じゃね?かと RT 「職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。》(いぐち)


               *

家の近所にある赤羽神社の境内で、文学とか詩とかについて考えていたのはもう十年は昔のことだ。その頃、同じ高校で文学の話をするものなどいないし、独り煙草の酩酊感に身を任せながら、ああでもない、こうでもないと考えていたのは、「文学の無償性」ということであった。文学者としての地位や文学者の社会での有り様を思うに、果たして無償ということを貫ける文学者などはいるのだろうかと考えていた。無償であって無垢ではない。無垢ということばには欺瞞しか感じなかったと覚えている。何故、このような昔話に興じているのかといえば、「食うべき言葉」で云いたかったことのひとつは、この無償性というものが会社で働くという経験を通じて、徹底的に粉砕されたと思うからだ。ここで鮎川信夫の言葉をあえて引くならば、「純粋詩的観念が、いつも詩の無償性というものに擬結する場所で、われわれは逆に有償性を求めてゆく」というときの「有償性」という言葉の意味を私なりに実感できた、その軌跡の一部を一昨日の日記で著したつもりである。

いぐちの要約による私の文章は、そりゃ因果律のみで書き下せばそういうことになるのやもしれぬが、また、私の舌足らずに多く混乱させる原因があったのは認めるが、あまりに乱暴なまとめかたではないか。まず、せきとの云うように、「書を捨てて明日ハローワークへ行こう」というのが結論ではなく、件の文章の根本のひとつは「詩がコミュニケーションのツールで(も)ないなら、何よ?」という点にある。《だが、それでもなお、歯痒く思うののは詩は、ことばは誰のために向けられておるのかという点である。会社勤め、そしてそれに付随する社会での体験は明らかに私に影響を与えた。私の繰り出すことばにもまた。しかし、私が紡ぐことば、表現、詩は一向に会社に影響を与えることはできない。それは、会社に勤める私自身にも影響を与えることができなかったのだから、当然のことと云えるかもしれぬ。》としつこく書き記したのはそのためだ。無論、これ自身は暴論に近いものに映るかもしれない。会社勤めが〈私〉(〈私のことば〉)に影響を与えるのと、同等の資格で、会社そしてその彼方ではなく、そのなかに住まう社会へ、〈私のことば〉が影響を齎さないのは何故かということに疑義を呈しているのだから。付言するまでもなく、私がここで云っているのは私の言葉の有償性を求めるという立場である。よって、リナ(彼女自身は「食うべき言葉」を読んでいないだろうと推測するのでここで反論するのは申し訳なくも思うが)の云うところの、《世間なんてものが気になるから、興を感じている自身に自信がもてなくなるから、退屈になるのかと思ったりもする。全霊で集中して居る状態はどっちにしろ幸福だ。どうやれば、周りを気にしないで集中していられるかが課題。たぶん、無職の詩人にとっても。》
という言葉はまさに、いまの私にとっては、表現の無償性に安住していられることによる「幸福」であるとしか思えない。私は「世間」など気にはしていない。気にしているのはあくまで「社会」だ。「全霊で集中し居る状態」自体は、フラットなものだが、その志向性が己にしか向いていないとすれば、それはあまりに寂しい無償性と云えはしまいか。「興を感じている自身に自信」を私は持たない。むしろ、「興」というものを警戒する。「欲の赴くまま」に書物を読む行為を私は尊いとはもはや思えない。確かに、「興を感じる」書物に耽溺する快楽を知らぬではない。だが、ここで云いたかったことは、果たしてそれで良いのかということである。寺山修司のことばを借りて「書を捨てて」と云ったのも、この「(快楽のための)書」を捨てなければならないという意味だ。何故なら、それは「書」をも殺すことになるだろうからという点に尽きる。

ここで「快楽」に対置するものとして私が主張しているのは「要/不要」である。《暇のさなかに生まれる詩など、誰が必要とするものか。》と書いたときの「必要」であるかないかということだ。それは決して社会の功利に沿った要/不要という意味ではない。どの詩人が云った言葉か失念してしまったが、「おまえの脳とおれの脳を直に交換したい」という程に焦がれるコミュニケーションへの欲求を軸とした要/不要だ。そのうえで、「生活者」という言葉が全てを包含しうると考えてきたし、いまも考えている。

TAKKの云う、《大切なのは、書を捨てて生活を選ぶのではなく、書を携えて生活することだ。社会という象徴界を常に相対化すること。自らの世界を揺らすこと。それは危険なことだ。しかし矛盾ではない。》という言には部分的に首肯するものの、たぶん私とTAKKのあいだでは、「生活」という言葉に対する秩序が若干ずれているのではないかと思われる。前述したように、私が捨てるべき「書」というのはあくまで、社会へと向かって行こうとしない言葉によって組織されたような「書」だ。私なりに換言すれば、不要な書を捨て、必要な書を守ることが「生活」するということになる。

《職という社会との繋がりがない俺に、一体読み手を想定しうるのか。家に閉じこもって書を読んでるだけじゃ駄目だ、っつうかそれすら没頭できてねえ! とりま社会との接点もたなきゃ!」かと》(いぐち)。これは私から云わせれば、全く倒立であって、職という社会との繋がりがなくたって十二分に「読み手」を想定し得る。そういうことを私は会社勤めのなかで学んだと書いているのである。「社会との接点をもたなきゃ」というのも奇妙な言だが、ひとは誰しも社会との接点を「持たざるを得ない」のである。社会とは決して観念ではない。それぞれ、独自の精神と肉体をもった個人の集合だ。それは、具体以外のなにものでもなく、日々私たちが、接している《あなた》という二人称だ。

《とりあえず、職じゃね?》(せきと)。まさに、その通りなのだ。会社勤めという経験が、具体以外のなにものでもない《あなた》を呼び寄せるのであるなら、「とりえず」という軽さを伴って、私は職へ向かっていくし、それが、私の個的な「生」なのだ。

最後に、生=生活という語で私が名指そうとしているものが、判然としないようであるから、ミクシィさいこーのコメントに応答しておこうと思う。

ワークライフバランスというときには
生活こそが仕事と対置されます。
たぶん詩は生活=ライフに含まれます。
しかし「生活者の詩」というときには
生活は仕事を含みます。
どうも対象としてるもの「以外」のすべてを
生活と呼んでいるんじゃないかという気がします。

これは僕もそうだから云いますが
てっちゃんにとって生活なんて云うのは
「余り」なんじゃないですか。
仕事も詩も考えようとするなら
生活なんて出来なくて当然じゃないでしょうか。

なーんにも無くなった今、
「生活を脅かす対象がないのに生活がない!」
と困惑してるのでは? 
本当は
「生活を脅かす対象がないから生活がない!」
なのかも知れません。

TAKKKが書いている、

>生活の中に文学があるのであって、文学の中に生活があるのではない

というのは勿論そうですが、
この対比よりも、もしかするとてっちゃんには
「生活詩人」と「詩人生活」の対比の方が
しっくり来るのではないかという気がします。
「詩人生活」というのは
通販生活」の「通販」が「詩人」に変わったものです。

私は生活者なのか?と自分に問う詩人よりも、
詩も仕事もひっくるめて生活してます、
というのがあるいは今の理想に近いのかも知れないと
読んでて思いました。

当たり前のように詩を書く、
というのはおそらくまだ抵抗感はあるんだろう、
と思いますが…。》

後半の、生活詩人/詩人生活という括りでいえば、後者に当たるし、「詩も仕事もひっくるめて生活しています」というのが理想型というのは、その通り。だけれども、前半の意味が私にはいまいちとれない。「ワークライフバランス」といったときの(この言葉は今、初めて耳にしたので誤解があるかもしれないが)生活/仕事の対立に承服できないのは、ミクシィさいこーが読み取っている通りなんだが、「ワークライフバランス」という枠のうえでは、「生活」なんて余りといえばいえる。だのに、ここまで私が「生活」というものに拘泥する理由が「生活を脅かす対象がないから生活がない!」という一点に尽きるのであれば、 それは恐ろしいが、そうではないのではないか。「生活を脅かす対象がないから生活がない」という言葉に驚きつつ、「生活」という認識を媒介にして「詩」と「仕事」を等値するために「生活」していくのだと云ってみたくなる。


             *

以上、長くなったが、一旦ここで「無職の詩詠み」からの応答を終える。


口ずさむ詩(うた)はなんだい?という問いかけが不図、頭のなかを旋回している。